大正8年7月には芦田川未曽有の大洪水に見舞われ、御幸・神辺平野は穴の海を再現し、野上堤防は決潰して旧福山市内は濁流が滔々奔馬の如く流入し、家屋を漂わし人畜を傷つけ、瞬くうちに阿鼻叫喚の一大惨事を現出した。
この時の芦田川流域(福山・深安・芦品・沼隈)の水害は、堤防決潰191ヶ所、決潰口延長約8 Km 、死者23人、家屋床上浸水9,996戸、耕地・宅地の流失埋没は約90ha、浸水農作反別約2,700ha、道路流失埋没139ヶ所、同上延長約5 Km、 橋梁流失73ヶ所、損害見積額4,932,797円という大水害であった。
この大水害によって福山市は,芦田川改修請願書を時の内務大臣及び県知事に提出し、ついで1市3郡で治水同盟会を組織し請願書も出し、たえず折衝を重ねた結果、ついに大正12年から10年計画で改修工事に着工したのである。
河床は平素砂洲を現し、流水部の河幅は20~30mで、不必要と思われる広大な洪水敷も、一旦降雨があればたちまち氾濫し、轟轟と濁流の一大河川となる。特に水勢の激突する屈曲部の中津原はその災害防止の上から広大な洪水敷(河川敷)を必要としたのである。改修以後羽賀の砂土手による逆流の被害はなくなった。