⑤砂堰石柱(森脇八幡神社へ移設)

 芦田川が大水で堤防が決壊するとき、羽賀の堤防の一部がウテビになっていて、必ずそこが切れるようになっていました。ウテビとは、堤防の一部を低くして、野面(のづら)を並べ、そこを水が流れても、掘り込まないようにした施設です。

 これは、羽賀の砂堰堤防の一部をウテビにして、ここから下流の流れる水を減少させ、福山城を水害から守るという役目でありました。このウテビの決壊を防ぐために、地元の人びとは、ここに砂を盛って、ウテビがきれないようにと、ここを死守しました。下岩成・森脇・中津原・尾部の住民総出で、ジョレンで三尺の土盛りをしました。
 ここが決壊しないと郷分・山手の堤防が決壊しますので、郷分や山手から多くの人びとが来て、土盛りをしているのを阻害しました。そこで、殴ったり、蹴ったり、怪我をしたということで、警察がきて、サーベルを抜いて仲裁するということを繰り返したという過去がありました。
 このことを永く後世に伝えようということで、昭和8年(1933)芦田川の改修によって不要になったこの石柱を、羽賀の堰からここへ持ってきて、このように建てたということです。  

 石柱につぎの文面が彫り込んであります。

  

 この名文は木村加三郎さん(学校の校長をされ、その後村長もされた)が、作られたということです。

 この標柱は、明治38年(1905)7月に、当時の深津郡長岡田吉顕の調停によって、砂堰の現場に、砂土手の高さ三尺と記して建てたもので、この印の所まで盛り土ができる。それを郷分・山手の者が監視するということで、双方の喧嘩はなくなりました。

 砂土手のあった場所は、現在羽賀のゴルフ場になっていて現在おおよその位置へ石の説明文が設置されています。砂土手のウテビの石組は、土中に残っているそうです。

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